広島地方裁判所 昭和29年(わ)611号 判決 1959年4月13日
被告人 村戸春一
大七・一・二八生 無職
主文
被告人を免訴する。
理由
本件公訴事実は、被告人は原爆罹災後の混乱に乗じて博徒を糾合し、広島市東部中部方面の繁華街を中心に街頭賭博団を組織し、その首領と目されていたものであるが、その頃同方面を根城として跋扈していた博徒岡組こと岡年男とその繩張を争つているうち、昭和二十二年十二月十八日自己の兄弟分の菅重雄が岡年男輩下の山上光治等より殺害されたので、これに憤慨し、同一派の者にいたく反感を抱いていたところ昭和二十三年一月一日乾分の山口芳徳、吉川輝夫他二名等が街頭賭博開張中同一派の西原勝より邪魔されたことに激昂して岡年男等を殺害せんことを決意し、同日午後三時頃乾分山口芳徳、吉川輝夫等と共に同市猿猴橋三十番地の右岡年男方二階賭場に乱入し岡年男一派の下井新太郎の実弟下井留一を認めるや矢庭に「騒ぐな動くな」と叫びつつ所携の拳銃で同人を射殺したものである。というのである。
よつて審究するのに、右日時場所において下井留一が被告人所携の拳銃より射出された拳銃弾を受けて死亡したことは証人下井新太郎の当公廷における供述、勝部スズ子の検察官に対する供述調書、香川卓二作成の鑑定書謄本を綜合してこれを認めることができる。而して右下井留一の死亡が被告人により殺意を以て為された拳銃発射行為に因るものであるか否かについては被告人は終始これを否認し、その点が本件の中心的争点になつているのであるが、被告人の殺意は以下説明する通り認め難い。
先ず被告人の下井留一に対するいわゆる確定的犯意の存否については、被告人が下井留一を狙撃しておれば、そのことのみを以て被告人の殺意を推断し得るのであるが、被告人が下井留一を狙撃したことを直接認定させるに足る証拠がない、尤も中村幹雄の検察官に対する昭和二十六年十二月十九日附供述調書にはこれを肯定すべきかの観を与える供述記載があるが、該供述記載は証人中村幹雄の証人尋問調書並びに巡査部長作成にかかる中村幹雄の聴取書の供述記載に対比し措信し難い。のみならず、下井新太郎、福井七郎こと朴竜満、勝部スズコの検察官に対する各供述調書を綜合すると、被告人所携の拳銃から発射音があつた当時前記賭場に参集していた者は総立ちになつて、その場を逃れ去るべく窓や出口に殺到したこと、下井留一は拳銃弾を受けて右賭場から階下へ通ずる出口附近で倒れていたことが認められ、これ等の事実から同人が倒れた当時その周囲には多数の者が密集していたことが推認されるので、仮令被告人が相当高度の射撃技倆を有していたとしても状況的に被告人が下井留一を狙撃し得たと考えることには疑問がある。
又動機の点からも、被告人は検察官に対する昭和二十九年八月二十四日附供述調書において、前記賭場に乱入した目的は、岡年男並びにその輩下の乾分を殺害するにあつたと述べ、検察官の作成した弁解録取書において乱入の際岡年男の一派いわゆる岡組の関係者をしては下井留一のみがその場にいることを知つたと述べており、これ等の供述記載は信用するに価するが、被告人の前記供述調書によると下井留一は岡年男の叔父分に当る下井新太郎の実弟ではあるが、藤坂佐一の乾分で岡年男の一派に属しないことを被告人が知つていたことが認められるので被告人が下井留一をいわゆる岡組の関係者と目した根拠としては同人が下井新太郎の実弟であることが挙げられるのみである。ところが下井新太郎の検察官に対する供述調書によると、被告人は下井留一が倒れた直後その現場で、かねて度々殺害を企図したことのある下井新太郎に対して、おじさん正月早々嫌味を言つて寄こさなくてもよいではないかと述べ、更にその後間もない時に被告人は下井新太郎の自宅において同人に対し自分は何遍も襲われた、今日は兄貴岡年男をやつて自分も死ぬるのだと述べながらも同人に対して何等危害を加えていないことが認められるので、下井留一が下井新太郎の実弟であることによつて、被告人が下井留一に対し殺意を抱いたものとは認め難く他に証拠上動機とみるべき事情は窺えない。
次に被告人に右賭場への参集者中何人かを殺害する意思(いわゆる概括的故意)或は人を殺害する結果を招くかも知れないとの認識(いわゆる未必的故意)があつたか否かについて検討するのに、前掲下井新太郎の証言、下井新太郎の前記供述調書及び巡査部長作成の実況見分書を綜合すると、被告人所携の拳銃から発射音があつて、下井留一が倒れる寸前迄被告人は前記賭場東側中央附近において西側にいた参集者の方に向い右手に所持している拳銃を引金に指をかけたまま左右に動かしていたことが認められるので、被告人が意識的に拳銃を発射したものとすれば、その一事によつて右責任条件の存在を肯定し得るのであるが、この事実を認めるに足る証拠は存在せず、而も証人林公親の当公廷における供述及び被告人の前掲供述調書を綜合すると、被告人は本事件発生当時遊人として街頭賭博から主たる収入を得ており、前記賭場から挙つた収益についても分配にあずかつていたことが認められるので、被告人の心情としては被告人が右供述調書において述べている様に右賭場の参集者は岡年男方の客であると同時に被告人の客でもあるので参集者に対して危害を加える意図はなかつたものと認めるのが相当である。従つて被告人に犯意があつたことはこれを肯定し得ないのである。
検察官は本件について仮令殺人罪の成立が認められないにしても傷害致死罪が成立するとの意見を陳述しているが、傷害致死罪の成立する為には被告人が拳銃を発射した当時賭場への参集者の中何人かに少くとも暴行を加える犯意があつたことを要するところ、本件では脅迫の犯意を認め得るにしても傷害の犯意はもとより暴行の犯意もこれを認めさせる証拠がない。
ところで凡そ装弾された拳銃の様な危険物を所持した者は、その取扱に細心の注意を払い、安全装置が施されていると否とに拘らず、引金に指をかけたまま人の現在する方向に銃口を向けることのない様にして暴発による危険の発生を未然に予防すべきことは言う迄もないことである。ところが被告人は不注意にも前記賭場において引金に指をかけたまま之を振り廻しているうち、下井留一が被告人所携の拳銃から射出された拳銃弾を受けて死亡した事実から推認できる様に同人の方向に銃口を向けていた為、被告人が意識的に拳銃を発射したものであるとは証拠上認め難いのであるが、少くとも暴発させることによつて下井留一を死に至らせたものであることが明らかであるから、被告人に重大な過失があつたことは否定できない。
然しながら重過失致死罪は三年以下の禁錮又は罰金に当る罪でその公訴時効は三年で本件公訴の提起された昭和二十九年九月一日当時既に時効が完成していること明白であるから刑事訴訟法第三百三十七条に則り本件公訴について被告人を免訴する。
よつて主文の通り判決する。
(裁判官 高橋英明 竹島義郎 森川憲明)